サンキング開発ヒストリー

  • (その3 パッチテスト~敏感肌用化粧品の開発、そしてサンオイルの時代〜)

現在、SunKingの製造元、皮膚臨床薬理研究所には4人の研究者が所属しております。そのうち二人は60~80年代、S社時代の父のもとで共に学んだ研究員です。現所長の鈴木喬もその一人です。僕はここ3年、鈴木喬のもとで化粧品にまつわる歴史や裏話、研究開発に関わる研究員の葛藤や飽くなき挑戦の物語(時に挫折を経た)を拝聴、実は化粧品と言うものは大いに夢のある商品であると言う結論に至り、見る見るうちに興味を持つ結果となりました。

まず、皮膚臨床薬理研究所という命名、これがいかによく考えられた社名かと言う事を思い知らされました。臨床と言う言葉は通常、医学の時に使う事が多くその意味合いは「治療」「診察」です。つまり皮膚臨床薬理研究所で開発されている化粧品はそれだけ肌の改善や安全性を考え抜いたアイテムであると言う事です。

父はスウェーデン・イエテボルグ大学皮膚科(1965年)マグヌッソン教授のもと「パッチテスト(アレルギー性接触皮膚炎の検査法)の研究」に従事しておりました。60年代の日本ではまだまだパッチテストと言うものは初期の段階で皮膚科医自らが検証していたようです。60年代初期、父も東京T病院皮膚科でパッチテストの研究を行っていましたがまだ前段階の時代でした。当初はガーゼを切り取り薬剤を塗布、それをテープで貼付けてパッチテストなるものを行っていたようです。しかしながらそのテープで皮膚かぶれを起こす患者が現れ、父は新たなテープの開発見直しを製薬会社に依頼したそうです。

父が本格的にパッチテストを化粧品開発に導入するようになったのはイエテボルグ大学留学以降だったようです。「皮膚臨床薬理研究所」、この名称を父が思いついたのもこうしたS社での長い研究経験からによるものだと思います。

父が帰国後、若き日の鈴木喬と共同で進めた研究は「敏感肌用の化粧品開発でした」。イエテボルグ大学で「パッチテスト研究」、ならびにハーバード留学時代の「光と皮膚」「サンスクリーンの開発」、東京T病院での「光過敏と光防御」の研究成果が実り、1971年、父と鈴木は世界初とも言える敏感肌化粧品「E」をS社より発表します。

一方、この当時S社の夏のキャンペーンは「肌をこんがり健康的に焼こう」と言うものでした。1966年からS社が始めたこのキャンペーンは1970年代後半まで続き、それに伴い他社化粧品メーカーも「夏は健康的に焼く」というキャッチのもと日焼け用のオイルが市場を席巻、大いに夏を賑わせました。まだまだSPF数値が表記されるわけもないサンスクリーン商品、それらも市場には並んでいましたが今日のアイテムにはほど遠いものでした。紫外線に関する正しい知識や認識も世間からはまだかけ離れ、化粧品メーカーですらあまり重要視していない時代でした。まして「敏感肌用化粧品」という概念はユーザーに取って初めて聞く言葉だったかも知れません。しかし、敏感肌の人々が確実に存在していたのも事実です。

さてその時代、敏感肌用化粧品開発の先駆けとなった鈴木喬が一方で研究開発に携わっていたものが一世を風靡した日焼け用オイル、それが「サンオイル」でした。

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