サンキング開発ヒストリー

  • (その2 ~サンスクリーンの開発、そして父について~)

前述したフィッツパトリック教授はベトナム戦争時、米軍の要請によりサンスクリーンなるものの研究開発を始めた方です。 太陽の下で交戦するミリタリー達、また、海上で職務に従事するアーミー達にとって太陽光線の刺激、 皮膚に及ぼす影響は殺人光線並みにはかりしれない弊害があったことは言うまでもありません。 それは海上に不時着し漂流する乗組員達も同様です。言わば命を守るためにサンスクリーン開発は必要だったわけです。 やがてフィッツパトリック教授はPABA(パラアミノ安息香酸)を消毒アルコールに溶解したローションを開発します。 それは1回の塗布で8時間効果を保ち、汗や水浴によってもその効果に影響がないものでした。 しかし白い衣服に着色してしまうという難点があったそうです。。 今で言うUVケア商品の始まり、つまりサンスクリーン開発にそんな歴史があった事を僕は知る由もありませんでした。

父がフィッツパトリック教授とハーバード大学で「光と皮膚」の共同研究を始めたのは ベトナム戦争真っ只中、1969年の事でした。 父達はアリゾナやアラモアナの砦で有名なサンアントニオで、軍人や大学生のボランティアの協力を得て サンスクリーンの研究開発に励みました。 日焼け止め効果の表示であるSPF = Sun Protection Factor と言う略語を父達は1960年代後半、ハーバード大学の研究室で使い始めたそうです。

それ以前はIP = Indicated Protection と言う略語が使われていたとのことです。 当時、父はSPFと言うこの日焼け止め指数表記が、後年これほどまで世界中に普及するとは夢にも思っていなかったそうです。 父達の研究グループは1970年、皮膚科学会の国際会議にてはじめてこの「SPF」と言う概念を発表したそうです。 その後、父達の研究グループにいたDr.アーサー・ソーバーがFDA(U.S.Food and Drug Administration)に転勤、1978年この指数表記が公開されたそうです。 父の記憶に寄ればその後イタリアの化粧品会社がいち早くこの表示を始め、SPFは世界中に広まったとのことです。

僕が10代の頃、父は海外にいる事が多く、不在ゆえにあまり父とコミュニケーションがありませんでした。 うちにいる時ですら父は常に延々と机に向かっていた記憶があります。 この時期、僕とあまり会話を持てなかった事、息子を放ったらかしにしてあった事を、近年、父が随分後悔していたと人づてに聞いた事があります。 何を父が後悔していたのかわかりません。息子はロックなどと言うものに浮かれ、いったい何をやっているんだ?と嘆いていたのかも知れません。

父とよく話をするようになったのは1990年代になってからです。父が大手化粧品会社S社退社後、現在の皮膚臨床薬理研究所を立ち上げてからです。 そしてそれはオフィス オーガスタ創立時期と重なります。
オーガスタの始まりは父の研究所にある小部屋からです。今は倉庫になっている部屋を間借りしていました。 当時、杏子や山崎まさよしは時々、父と会話する事があったようです。 山崎は研究所の階段に座ってよくひとりポツンとギターを弾いていました。 父はそんな山崎の事を「彼の佇まいはどこかペーソスがある」と語っていました。 たぶん、父も心のどこかで山崎が醸しだす雰囲気や彼の奏でるギターの音色に魅せられていたのでしょう。

21世紀、父の病いに伴う諸事情により僕(オーガスタ)がこの研究所の経営を管理する事になりました。 この研究所の目的はOEMで化粧品や外用剤(薬品)の処方を作る事、様々な研究発表や処方の開発でした。 僕には全く持って未知の領域でありました。
当初はエンターテインメントとは遠くかけ離れていると思っていましたから。 ところが、いつも研究所の扉を開ける度、どこか研究員の先生達に不思議な親しみを覚えました。 ボードに書かれている化学式はなんとなく譜面に書かれたコード進行みたいだし、 フラスコを振ったり、ビーカーを眺めたり、顕微鏡を見入っている研究員の先生達の姿は 楽器やエフェクター・ボード、ミキシング・コンソールに向かっているうちのアーティストやスタッフのレコーディング・スタジオ作業と被るものがありました。 そこにはクリエイターとしての同種の空気が流れていました。

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